信長も嫉妬した多聞山城
こんにちは、奈良街道まちづくり研究会事務局長の山口です。私は若草中学校卒業で、若草中学校が多聞城跡ということを余り知らずに学生生活を過ごしました。そして、きたまちの街おこしをする中で、街のシンボルとして何か無いかと探していたところ、松永久秀がこの地に、日本で初めて4層の櫓を持った絢爛豪華な城を建てていたことが分かりました。
それまでの城郭は戦闘型の平城でした。地元住民でさえそんな立派な城があったなんて誰も知りませんでした。 日本城郭史学会の西ヶ谷先生に講演をいただいた時に、松永久秀という人物がどれほど長けた人物であったか、またルイス・デ・アルメイダという宣教師が見た多聞城がどれほど絢爛豪華であったか、松永は茶の湯を愛し、最後は信長に反旗を翻して大切な茶釜と一緒に爆死するというまさに戦国時代を駆けめぐった武将であったことなどを教えていただきました。
その後、信長によって多聞城はことごとく破却されてしまいますが、信長はその後安土桃山城をこの多聞城をならって建てたということもわかりました。つまり、多聞城は現在ある城郭の元祖であり、信長にとっては、自分より先じて素晴らしい城が存在してはならないことから、ことごとく多聞城を破壊したと思われます。 今、文芸社から出版されている藤岡周三氏著「松永久秀の真実」でもそのことが書かれています(作者は地元の西包永出身の方です)。
平城京遷都1300年を迎えた2010年は、きたまちにとっては、多聞城築城450年という記念すべき年でもありました。