奈良きたまち

〜歴史のモザイクのまち〜

旧京街道とおしあげちょう、今小路辺り

京街道は江戸時代には名所旧跡めぐりの人々で大いに賑わいました。

転害てがいもん

転害門
転害門

佐保路門、景清門とも言われる3間1戸8脚の堂々たる木組みの門です。鎌倉時代に修理されていますが、東大寺創建以来、歴史ある門で国宝になっています。

平家物語ではたいらの重衡しげひらの南都攻めの際、南都大衆がここを楯に防戦していますし、戦国時代には、多聞山城の松永軍と大仏殿に陣を構えた三好軍が対峙したど真ん中にありました。どちらも大仏殿が焼け落ちるほどの大激戦でしたが、奇跡的に一度も焼けていません。

横面のかえるまた二重にじゅう虹梁こうりょうが素朴で力強い美しさがあります。 飾りもなく、ごつごつした門で、派手さはありませんが、どっしりとした構えから、どんなに時代が変わっても、かわらず建ち続ける自信、安心感が感じられます。きたまちのへそというか、まちの「重心」になっています。

京都から奈良への玄関口に位置しているので、清少納言や、信長、頼朝、宮本武蔵、などが、見たのと同じ門を、今の私たちも見ていると思うだけでわくわくします。


鏃の跡
鏃の跡

柱には、 やじり が突き刺さったままです。平重衡の南都焼き討ちか、松永と三好の戦いのときに、受けたものでしょうか。鏃が歴史の雫です。真っ赤に燃えさかる大仏殿をバックに、転害門をはさんで戦う光景が想像されます。

今は立ち入れませんが、きたまちの子どもは昔は、この門をくぐって鼓阪小学校に通っていました。青いドッジボールが屋根に乗っかっていたこともあり、子どもに親しまれる象徴のようで、ほほえましい風景でした。実は国宝なのですが、荘厳さより親しみやすさがある門です。

おすすめは、東側の基壇に腰掛けてください。正面に正倉院の森があり、大きな屋根の下は大樹の木陰に座っているような安らぎを感じていただけます。

雲井くもいざか

雲井坂石碑
雲井坂石碑

雲井坂は、南都八景のひとつ「雲井坂の雨」で有名。 昭和初期に道路が整備される時、坂はかなりなだらかに改良されました。南都八景に詠まれた当時は、急な登り坂に霧雨が降る様が美しかったのでしょう。この付近は「押上郷」といいます。雲井坂で荷車を押し上げたからついた名前です。 この付近には、昔の街道の賑わいを思い起こさせるものが残っています。

雲井坂の怪物 大蛇・龍・蜘蛛のはなし

一、今は昔、理源大師が、大峰山に登ったとき、大蛇が現れ、雲井坂まで追ってきました。このとき、黒雲が大師の前を覆ったので、雲居坂と呼ぶようになったと言います。その時、鈴谷左近将監が剣で大蛇を退治したので、大師はその霊をまつったということです。

二、今は昔、東大寺西大門があったころ、この門に掲げられた額を舐めに毎夜のように龍が舞い降りました。この龍が雲を巻き上げたことから雲居坂の名がついたと言うことです。

三、今は昔、蜘蛛が空中から降り、額を舐めるのを弘法大師が鎮めたため、その後は異変が起こらず、蜘蛛降坂とよんだとか。

とどろきばし

轟橋は、南都八景のひとつ「轟橋の旅人(行人)」にあげられるほど人通りが多かったのか、奈良の街道を代表するところだったのでしょうか。八景で唯一旅人が主役の風景です。かつて、ここに東西4間4尺(約8.5m)、南北1尺1寸(約0.4m)の小さい橋がありました。今は、東側の歩道に残る石がその位置を示しています。京と奈良を行き交った旅人の足音や、勢いよく荷車を引っ張る音が轟いたので、「轟の橋」と言われています。京都からやってきて、最後の難関である雲井坂の急坂を登りきったうれしさで、特に大きく音を立てたのかも知れませんね。

轟橋石碑 轟橋跡
轟橋石碑と轟橋跡

南都八景

南都八景は、室町時代、将軍足利義政にお供して春日詣でに来た禅宗の陰涼軒 蔵主が、中国の瀟湘八景にならって、奈良の風光明媚な景色を日記に記したものです。東大寺の鐘・春日野の鹿・南円堂の藤・猿沢池の月・佐保川の蛍・雲井坂の雨・轟橋の行人・三笠山の雪があげられています。佐保川の蛍は、僧が今在家町の石橋を渡るときに見た風景でしょうか。


【三笠山の雪】 三笠山 さして頼めば白雪の ふかきこころを 神やしるらむ

【東大寺の鐘】 をく霜の 花いつくしき名も高し ふりぬる寺の鐘のひびきに

【雲井坂の雨】 村雨の 晴まにこえよ雲井坂 三笠の山は ほどちかくとも

【春日野の鹿】 春日山 みねのあらしや寒からむ ふもとの野辺に鹿ぞなくなる

【佐保川の蛍】 とふほたる 影をうつして佐保川の 浅瀬に深き心をぞしる

【轟橋の行人】 うち渡る 人めも絶えず行く駒の ふみこそならせ とどろきの橋

【猿沢池の月】 のどかなる 波にぞ氷る猿沢の 池よりとをく 月はすめども

【南円堂の藤】 藤波は 神の言葉の花なれば 八千代をかけて なおそさかえむ

大風で倒れた東大寺西大門

西大門礎石
西大門礎石

雲井坂には、西へはいる幅4mほどの細い道路があります。この道は平城京の二条大路の跡で、今もまっすぐに朱雀門に向かって道路が続いています。

二条大路は平城京では、朱雀大路に次ぐ幅36mの大路でした。雲井坂は平城京の東京極大路であり、二条大路との交差点東側に、東大寺西大門が威容を誇っていました。南大門級の規模で、天皇のおられる平城宮への東大寺の正門だったようです。

戦国時代の天正11年(1583)に大風で倒壊し、門跡には、大きな礎石が残るだけですが、3m×3mもの巨大な「金光明四天王護国之寺」扁額が残っており、門の大きさが偲ばれます。

きたまちの大火事 奈良の北焼け

宝永元年(1704)4月11日正午頃に、芝辻村から出火。油阪から東向町を経て、半田・押上から水門村にわたる43の町、約1800軒が焼失。死者13名と記録されています。奉行屋敷、与力屋敷、称名寺、念声寺、祇園社なども焼けています。この火事を俗に「北焼け」と言います。

その60年前の寛永19年(1642)11月27日にも、きたまちのほとんどが焼ける火事が起こっています。火災は江戸時代を通じおもなものだけでも30回を数えるということです。

焼け門

焼け門跡
焼け門跡

東大寺の西を限る境界には、南から西大門、中門、転害門と3つの大門がありました。中門は、慶長11年(1606)に、祇園社の前にあった膠屋から出た火で類焼しました。以来再建はされず、焼け門という名がつきました。大きな礎石が残っており往時の威容を偲ばせます。

焼け門跡
焼け門跡

また、中門から西に向かっての通りを、中門にちなんで、中御門町と言います。中御門町は通りの南半分が、東大寺から流れてくる中御門川が流れ、川中地蔵のところで吉城川に合流していました。今は暗渠になっています。

御拝壇

焼け門横御拝壇
焼け門横御拝壇

焼け門の東側に、2m四方の四角い石の台があります。この石は、天平勝宝6年(754)4月に聖武天皇が受戒したとき、ここに座して大仏殿の方を向いて三礼した後に、堂に入ったと言う場所です。

戒壇院はこの年の5月に建立の詔が発せられており、このときはまだ戒壇院がなく、この場所から大仏殿がよく見えたのでしょう。

一里塚

一里塚石碑
一里塚石碑

一里塚は、西大門跡のところにあります。かつては、大和の道路の起点、道路元標だったとも言われています。傍らに、一里塚を示すエノキの大木の枯れた幹が立っています。

みとりゐ池

みとりゐ池石碑
みとりゐ池石碑

みとりゐ池は、轟橋の横にある小さな池ですが、江戸時代の古図にもその名が記されています。 京都から奈良へやってきた旅人は、ここまで来ると春日社の一の鳥居が見えたから、見鳥居池と言うのでしょう。

松屋会記

松屋は、転害門前、一条通りの南西角から今小路までに居を構えた塗師屋で、南都の豪商。その土門久政・久好・久重による「松屋会記」は、天文2年(1533)から慶安3年(1650)にわたり100年以上書きつがれた茶会の記録。堺の「天王寺屋会記」と並び称される我国を代表する茶会記。松永久秀、千利休、古田織部、荒木村重、豊臣秀長、津田宋久など当時一流の茶人の名が出てきます。

伊藤博文と対山楼

転害門から登大路に向かっての今小路町・押上町は、樽井町・今御門とならぶ南都の4大宿屋町でした。今は、天平倶楽部というレストランになっていますが、戦前までは、菊水楼とならぶ奈良随一の旅館「対山楼」がありました。この名は山岡鉄舟が選んでおり、宿帳には、伊藤博文、山県有朋、大山巌といった明治の元勲や、正岡子規、岡倉天心、滝廉太郎などの名があり、超有名人が必ず泊まった旅館でした。

明治の半ばに鉄道が開通し、奈良の玄関が、三条通りの方に移ってからは、しだいにきたまちもさびれていきました。

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