奈良きたまち

〜歴史のモザイクのまち〜

手貝てがいちょう辺りから西側へ

中世、奈良坂を下った手掻郷(現手貝町付近)には庶民の旅宿が建ち並び、旅宿郷とも呼ばれるほどでした。

きたやまじゅうはちけんと夕日地蔵

北山十八間戸 夕日地蔵
北山十八間戸と夕日地蔵

鎌倉時代の僧忍性が建立した、ハンセン氏病患者の救済施設。700年以上も前の福祉事業の記念碑的建物です。目前に東大寺大仏殿がみえ、極楽への往生を祈ったことでしょう。

すぐ近くに、室町時代の夕日地蔵があり、会津八一のうたに詠まれています。
「ならさか の いし の ほとけ の おとがい に こさめながる る はる は き に けり」

南都の石橋

石橋 石橋
石橋

今在家町の佐保川に架かる長さ15mの大きな石橋。かつての奈良街道の賑わいを示す証人。石橋研究家にも知られていない橋でしたが、研究会が発見。昨年秋に「石橋を見て語る会」を開催し、橋梁工学の専門家や石屋さんにも参加いただき、皆さんにPRしました。

石橋といえば長崎の眼鏡橋や肥後の通潤橋が有名です。明治になるまでは、石橋の95%が九州で架けられ、本州などでは、わずか20橋程度しか架けられていませんでした。今在家町の石橋は、慶安3年といいますから、今から353年前の1650年に架けられた記録が残っています。これは九州の橋を含めても全国20番目ぐらいの古さで、大変貴重な石橋であるといえます。

石橋昭和初期の写真 石橋
昭和初期の写真

大正時代に上面をコンクリートで舗装されたため、毎日利用されているのに、地元に人にも忘れ去られていました。東大寺の元禄の復興の時に、木津から荷揚げしたが木材が運ばれましたが、25トン長さ25mにもおよぶ巨大な梁や柱が無事佐保川を渡ることができたのも、この石橋のおかげです。東大寺とも縁の深い橋です。

京都や伊賀、八幡への玄関口として重要な橋であり、奈良奉行所によって南都で唯一架けられた橋です。その他の橋は各町によって架けられています。これも、近世の歴史の雫の発掘です。

石橋記録図奈良奉行所記録
石橋記録図奈良奉行所記録
石橋設計図
石橋設計図

奈良さらしと佐保川

佐保川の石橋から東側の辺り、今は奈良市の市営住宅が建っているあたりは江戸時代、佐保川に沿ったなだらかな斜面で、佐保川の水を使って晒しが行われていました。布の白さが雪のようであったといいます。その光景は、大和名所図絵(寛政3年:1791)にも描かれています。奈良晒は全国ブランドの高級麻布でした。かつて次のような歌が歌われました。


「奈良坂や涼しさしるし晒時」(寧楽百首)

古今名高寧楽布(ここんになだかい、ねいらくのぬの)
衆人競依歩炎陽(しゅうじんきそいきて、えんようをあるく)
請看般若寺辺北(こうみよ、はんにゃじあたりのきた)
恰似漫々雪後岡(あたかもにたり、まんまんたるゆきあとのおか)

井原西鶴と手貝町

井原西鶴の町人物の「世間胸算用」に、手貝町の隠居が出てきます。

蛸売りの八助が、奈良の町で蛸の足を1本減らして売り歩いても、誰も気が付かない。ずいぶん奈良の人間はお人好しだったようです。ある年の暮れ、さらに2本切って売り歩いても、誰も詮索する人がいない。ちょうど手貝の町中で蛸を2盃売ったところ、碁を指していたその屋のご隠居が出てきて「どこの海に足が6本の蛸がいるか。おまえの顔を覚えたぞ」。すると八助が「この暮れにのんきに碁を打っているようなところでは売らぬ。」と喧嘩した話が「奈良の庭竈」という話に出てきます。

また、奈良の暮れは京大阪に比べて格別静かであるとも書いています。

刀鍛冶 手掻てがい包永かねなが

大和の国は、南都の僧兵の需用が多く、鎌倉時代頃から千住院や尻懸、當麻、保昌など全国に名を馳せた有名な刀鍛冶が活躍しました。手貝門から西への一条通りは、包永町と言いますが、ここにも、鎌倉時代から室町にかけて活躍した手掻派刀工の始祖とされる、包永が鍛冶をおこなっていました。その作風は、鎌倉中期に見るような反りがある厚い刃が特徴で、国宝にもなっています。

包永には、次のような逸話が残っています。転害門近くに住んでいた鍛冶匠の四郎左衛門包永は、長年、般若寺の文殊菩薩を信仰していました。正安2年(1300)のある夜、包永が夢に聞いた文殊のお告げの通りに剣を鍛えていると、文殊が化身して一人の童子となって槌を打つのを手伝いました。そのおかげで名刀包永ができあがり、尊前に奉納したということです。そのときに般若寺から文殊四郎の名を与えられたということです。

向出醤油のこと

向出醤油
向出醤油

明治12年創業の堂々たる建物。銘柄は「宝扇」といい、濃口とさしみ醤油が、昔ながらの店先で売られています。

南大門の大提灯と奥野傘店

奥野傘店
奥野傘店

今在家町石橋の南側に、奥野傘店があります。南大門の両側に架かっている大きな提灯をつくっています。毎年紙を貼り替えるのですが、最近は排ガスで真っ黒になっているそうです。うまくすれば、店で大きな提灯を見ることが出来ます。

奈良墨

「町代高木又兵衛諸事控」(宝永年間1704〜1711)によると、墨屋之覚として38軒の墨屋がありました。その中で、きたまちでは、鍋屋町:大森泉、油留木町:福井出羽・甚兵衛・庄次郎、押上町:福井備後・細谷丹後・黒津相模・森村筑後・中村大和、手貝町:森島伊賀・長兵衛、大豆山町:高山内匠・太郎左衛門と、3分の1にあたる13人の墨屋が書かれています。

松永久秀と多聞山城

三笠霊園から見た多聞山城跡
三笠霊園から見た多聞山城跡

永禄2年(1559)に松永久秀が築城。天正4年(1576)に信長によって、跡形もなく破壊されました。わずか17年間の城ですが、天守閣や多聞櫓を備えた白亜の城の最初であり、安土城をはじめとするその後の城郭のモデルとなった画期的なものでした。

ポルトガル宣教師ルイス・デ・アルメイダが、「世界中でこの城ほど美しい城はない」と記録。城跡からは東大寺や興福寺が足元に広がり、久秀の大和支配の気持ちを凝縮しており、見せる城として豪華なものであったそうです。

久秀はさかんに茶会を催しており、今井宋達や宋久といった名前が見えます。柳生石舟斎は久秀の武将として活躍しています。奈良に戦国の城があったという歴史の雫。2010年には、櫓の復興をするのが研究会の大きな目標です。

多聞山城復元図
多聞山城復元図 (日本城郭史学会 西ヶ谷恭弘)

荒木又右衛門と一条通り

一条通り

日本3大仇討ちのひとつ、鍵屋の辻の仇討ち。荒木又右衛門が敵とねらうは河合又五郎。その又五郎を助太刀する河合甚左衛門。

甚左衛門は手貝村に住んでいました。又右衛門が手貝村に着いたとき、彼は転居した後。奈良の町中を探し、やっと法華寺村で又五郎一行を発見。寛永11年(1634)11月6日未明から、一条通りを転害門に向けて追跡を開始。転害門から般若坂をこえて、伊賀街道に入り、11月7日、伊賀上野で、見事本懐を遂げました。逸る心をおさえて、夜明け前の暗い一条通りを追いかける又右衛門の緊張感は、いかばかりだったのでしょうか。この話も歴史の雫。

ちなみに、二条通りは、称名寺の前から女子大の南門を経て、NHKの前を通る道で、昔は幅36mと、朱雀大路に次ぐ大路でした。東の突き当たりが雲井坂で、東大寺西大門がありました。

法蓮橋のこと

一条通りが佐保川を渡るところ、聖武天皇陵の正面にもあたりますが、石造りの高欄(手すり)がきれいなカーブを描いている橋があります。長さ16m、幅6mあり、親柱には法蓮橋と刻まれています。高欄は花崗岩を、削ったもので石工が丁寧に仕上げたことがわかります。また親柱には、昭和6年尾田組により竣工したことが記されています。

この橋は江戸時代、千石橋と呼ばれていたようで、多聞町の与力・同心へ年間千石の米が運ばれたので、そう呼ばれたと言います。

奈良地方気象台

台風や地震などに関する観測や情報発信など、奈良県内の生活の安全に欠かせない奈良地方気象台は、明治30年(1897)に八木(橿原市)に奈良県測候所として開設されました。

当時、大安寺付近、三笠中学付近、若草中学北方台地、聖武天皇陵西方丘陵の4つの候補地が挙がりました。検討の結果、昭和28年に、今の聖武天皇陵の西に連なる高台に移設されたのです。急坂沿いの桜並木を登っていくと、奈良盆地を一望できる眺望が開けています。

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