奈良きたまち

〜歴史のモザイクのまち〜

奈良女子大辺り

新興住宅と昔ながらの町屋が入り交じる、奈良女子大界隈。名所が点在し、古都ならではの発見を楽しめます。

南都のもう一つの城郭 奈良奉行所

奈良女子大学
奈良女子大学

奈良奉行所は、今の奈良女子大のところにあり、江戸幕府の設置した遠国奉行のひとつ。奈良町中の行政・訴訟、大和国の寺社の支配、大和国の訴訟の一部を職掌としていました。約29,000平方メートルの敷地があり、遠山金さんのいた江戸北町奉行所の3倍以上の大きさ。奉行所として日本一の規模。堀で囲まれ、京都の二条城と同じ規模のまさにお城と言えます。

有事の際には、上方から江戸までの繋ぎの城の機能を持っていました。女子大前の道が広いのは、ここで行列を整えたから。また、奉行所向かいの寺川道具店は、奉行所の中をのぞけないように2階に窓がありません。奉行所があったことの証人です。

寺川道具店
寺川道具店 2階には窓がない

幕末の名奉行川路かわじ聖莫としあきらが、弘化3年(1846)からあしかけ6年間善政をひいたことで有名。また、梶野かじの良材よしきは、奈良の学問所として天保3年(1832)に明教館を開設。与力同心の子弟のほか、町民も受講でき、学問の興隆に努めました。奈良人形中興の祖、森川もりかわ杜園とえんを見いだしたことでも有名です。

この奈良奉行所は、今、奈良町の奈良市立資料保存館に展示してある、復元模型により往時の構えを見ることができます。

奈良奉行所学問所 明教館のこと

奉行所学問所の明教館は、奈良女子大学北東角の交差点の西北角にありました。いまは、住宅になっていますが、天保3年(1832)に、奈良奉行であり、国学に秀でた梶野かじの良材よしきによって設立されました。

初代教授は南半田町の儒学者滝世脩。受講生は、与力・同心の子弟が主体でしたが、町民も加わることができたようです。梶野かじの良材よしきはまた、一刀彫りの森川もりかわ杜園とえんを見いだしたことでも知られ、名奉行の一人といえます。

弘化3年(1846)に奉行に赴任した川路かわじ聖莫としあきらが、さらに広く門戸を開き、市中の寺子屋に命じて子弟を集め、講義を行うなどしたため、明教館も充実され、奈良における教学の中心地になっていたようです。東大寺の僧侶や町衆の名もみえます。

明治になり、新しい学制のもとに、明治5年に今の鼓阪小学校の前身として再スタートしました。

代官所・監獄所・博覧会場・警察学校

天理教(旧警察学校)
天理教(旧警察学校)

西笹鉾町で、今は、マンションや天理教(旧警察学校)の塀が続いている一画が、奈良代官所がおかれていたところです。大和国にある江戸幕府の領地の支配をうけもち、年貢の徴収や吉野地方の寺社に関わる事柄の裁判にあたりました。

代官所は、寛文4年(1664)から元文2年(1737)まで設置されていました。 明治にはいって、監獄所がおかれていましたが、明治41年に今の少年刑務所に移転したあとは、草地になっていました。

今では想像もできませんが、昭和8年には、奈良市制35周年を記念する観光産業博覧会が、この場所をメイン会場として数多くのパビリオンが建ち並び、そのほか県立美術館付近を第2会場、京終駅前を第3会場として開催されました。 会期中には、当時開渠であった吉城川が氾濫し、売店が流出する騒ぎもおこっています。

その後昭和16年から42年まで県警察学校が置かれましたが、今も重厚な造りの本館や道場はそのまま保存され、天理教会として利用されています。

最後の足利将軍の救出と興福寺一乗院

今の、裁判所のところには、大乗院と並ぶ興福寺の二大門跡、興福寺一乗院が有りました。

時は、戦国時代。永禄8年(1565)5月16日深夜、松永・三好軍が、京都二条の室町御所を包囲。第13代将軍足利義輝を殺害しました。足利の武将であった勝竜寺城主細川藤高は、この凶報を聞くや、奈良一乗院にいる義輝の弟「覚慶」を救うため、直ちに奈良に走りました。既に松永の手は回っていたものの、闇に紛れて一乗院の塀を乗り越え、覚慶を救い出し、近江へ。松永軍の本隊は翌朝、京都から討って返し一乗院に侵入。その時すでに、一乗院はもぬけの殻だったのです。

間一髪、藤高に救出された「覚慶」は、第15代将軍「足利義昭」となり、戦国のドラマを彩る存在になりました。

一乗院の寝殿は唐招提寺に移築されています。また、最後まであった北門は、大安寺の南門として移築されました。

浅井長政とこういん

きたまちは、松永久秀だけでなく、有名な戦国武将にかかわる歴史の雫があります。 そのひとつ普光院は、聖武天皇陵の南、一条通り、佐保川にかかる法蓮橋のたもとにあるお寺です。このお寺を開いたのが浅井長政の遺子である慶誉上人といわれています。

門を入ったすぐ左手に奈良一刀彫の森川もりかわ杜園とえんのお墓があります。自然石をそのまま使った大きなお墓です。森川もりかわ杜園とえんは奈良奉行の梶野かじの良材よしきに見いだされ、才能を開花させました。毎年命日にあたる7月15日には、一刀彫にたずさわる方々が供養されているとのことです。墓碑には辞世の句として「罷出てあらぬ手業を世に残し さも恥しと身は隠れつる」と刻されています。

武田信玄とねんしょう

念声寺
念声寺

川久保町にある浄土宗のお寺。川久保町は、大仏殿の南から流れてくる吉城川と大仏殿の北側から流れてくる中御門川が合流するところです。低地を表す川窪が佳字化したものでしょうか。二つの川は今では、暗渠化されていますが、かつては潤いのある町の景色をつくっていたのでしょう。

この合流点のところに白い塀で囲まれた念声寺があります。門を入ると左手に舟後光地蔵がおられ、そのお堂に、開基が武田信玄の遺子であることが書かれています。中庭には、油煙斎歌塚があります。

川中地蔵
川中地蔵

合流点には川中地蔵と道標があります。暗渠化する工事の際に川の中からでてきたお地蔵さんをお祀りしており、この名で呼ばれています。また道標は、安政3年(1856)12月と彫られています。

徳川家康とそうとく

徳川家康の竹馬の友であった縁誉上人。家康は、上人が奈良に住居を求めたので、本堂を創立、伏見桃山の旧殿を庫裏とした。ともに奈良県の文化財指定されています。

境内の薬師堂には、「焼け地蔵」と呼ばれる薬師如来像が安置されています。奈良の北焼けといわれる宝永元年の大火が、この薬師堂のところで止まったことから、そう呼ばれるようになりました。徳川家康の鎧かけの松の碑があります。

しょうみょうのこと

やすらぎの道に、「茶道発祥の地、茶礼祖・村田珠光旧跡、称名寺、右」という道標が立っています。室町時代に茶禅一味の茶の湯を開いたむらじゅこう(1422-1502)が、11歳で出家し青年期を過ごしたお寺。京都大徳寺でわび茶を開いてからも、度々奈良を訪れ、称名寺に独慮庵を設けました。千利休は、孫弟子に当たります。毎年、5月15日には、その功績を称えて、珠光忌が開かれ、抹茶が振る舞われます。

本堂を右に行くと、千体地蔵に目を奪われます。昔、海空和尚が、付近に散在していた石地蔵をここに集めて供養したと伝えられているものです。

消えた川と北花橋、永代橋

平成11年の夏、きたまちは、時ならぬ豪雨で、まさに道路が川になり、あちこちで浸水被害が発生しました。今はふたをされて、道路になっていますが、地下を流れている吉城川にむかって水が集中したことが原因です。奈良公園から流れてくる吉城川と中御門川が、川久保町で合流し、佐保川に向かっているのですが、モータリゼーションの中で、地下河川になってしまいました。

いまは、押小路町のところの北花橋の親柱、女子大の北東の角に永代橋の石碑が、かつて、蛍が飛んでいたのどかな川があったことの証拠として残っています。

平城宮保存の恩人 棚田たなだ嘉十郎かじゅうろう

空海寺にある棚田嘉十郎翁顕彰碑
空海寺にある棚田嘉十郎翁顕彰碑

平城京保存の恩人として有名な苗木植木商の棚田嘉十郎は、明治20年から東笹鉾町10番地に住んでいました。偶然にも幕末平城京研究の先覚者として有名な北浦定政の息子義十郎が隣町の東包永町に住んでおり、明治29年に義十郎から定政の「大内裏跡坪割之図」を手渡されたことが、平城京保存運動を決意する端緒となりました。

明治36年の平城宮し保存趣意書には、発起人として、東笹鉾棚田嘉十郎と署名されています。嘉十郎は後に大豆山町に転居しましたが、東笹鉾町は嘉十郎が平城宮の復興を夢見て保存運動に奔走した町なのです。 今、嘉十郎は、雑司町の空海寺に眠っています。

奈良漬けの歴史

平城京の時代の長屋王の邸宅跡から、「粕漬瓜」と記された木簡が発見されました。奈良の名産奈良漬けのルーツは、1300年以上のいにしえから、粕漬けとして上流社会で珍重されてきたようです。

「奈良漬」という名が広く知られるようになったのは、江戸時代のはじめ、慶長8年(1603)頃に、中筋町に住んでいた漢方医、糸屋宗仙という人が、白瓜を酒粕に漬けて坊門で売り出してからと言われています。

大阪夏の陣では、宗仙が献上した奈良漬けの風味の良さに家康が感激、江戸に戻ってからもその味が忘れられず、ついに宗仙を奈良から呼び寄せ、奈良漬け造りの御用商人にさせたと言うことです。以来、参勤交代の大名の手みやげになるほど日本中の人気となりました。

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